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2010年07月16日

先人の生き方に学ぶ

スピリチュアリズムサークル心の道場』が発行している『スピリチュアリズム・ニューズレター 50号』を読んだ。
ちなみにこのニューズレターは今号を持って一端休刊になるそうである。
またサークルの名称も『スピリチュアリズム普及会』に変更されるとのこと。
『心の道場(修行)』はもう終わりってことかな?(笑)

まー、そんなことはともかくとして、今号のテーマはマザー・テレサについてであった。正確には「マザー・テレサの心の闇の問題について」ということであった。

マザー・テレサといえば、インドの貧民街において、貧しい人々を救うことに前人性を捧げた聖女とされる方である。またキリスト教を信仰し、神やイエスを心から信頼していたとされている。
ところが、そのマザー・テレサが、実は神やイエスの実在に対して疑念を抱いていたというのである。
このことはこれまでほとんど知られておらず、またマザーも周りに明かしていなかったようであるが、唯一5人の霊的指導者に対してそれを手紙に書きつづり告白していた。
その手紙の内容が2007年に“Come Be My Light”というタイトルの書籍として出版され、そのことが明らかになった。

このことに対してはキリスト教会、他宗教会を初め様々な反応があるようであるが、それに関してはニューズレターなど他の物件当をお読みいただくとして、ここでは私の感想を述べたいと思う。

まず、あれほど献身的に貧しい人々を救うことに前人性を捧げ、また人々の灯台となり、人々の生き方の模範とされたマザー・テレサが、神やイエスの実在に対して疑念を抱き、そのことで悩み苦しんでいたという事実は、やはりマザーも一人の人間だという思いがした。
私たちが悩み苦しむように、マザーもまた一人の人間として悩みや苦しみがあったということである。
よく偉業をなした人のドラマや映画を見たり、伝記を読んだりすると感動すると同時に、
「あの人は天才だ。自分たちとは次元の異なる存在なのだ」
と、雲の上の存在として神格化してしまっていないだろうか。
例えば、世界的に有名な盲ろう者であるヘレン・ケラーも私たちに感動を与えてくれる人物であるが、そのヘレンにも次のようなエピソードがあったようである。
(以下生井 久美子著『ゆびさきの宇宙―福島智・盲ろうを生きて 』より引用)


ヘレン・ケラーは三六歳のとき恋におち、人生でただ一度、駆け落ちを約束した。
相手は一〇歳年下のピーター・フェイガン。元新聞記者でヘレンの秘書だった。だが「三重苦の聖女」と呼ばれた彼女は周囲に反対され、連絡もうまくとれず果たせなかった。
のちにヘレンは著書『わたしの生涯』のなかで〈短命に終わった恋は、暗い海に浮かんだ歓喜の小島として私の生涯にいつまでも残るでしょう〉と書き残している。
ヘレンは二〇代のころ、人生の師でもあるグラハム・ベルに、結婚も考えてはどうかといわれたことがある。彼女は心動かされながら「愛なんて手を触れることを許されない花」とこたえ、「そんな大きな冒険」に入る気はないと否定していた。ピーターとの恋は、ヘレンが初めてサリバンや周囲の意に反して自らを貫こうとしたできごとだった。
ピーターの三女で弁護士のアン・フェイガン・ジンジャーは私の取材に「ふたりは社会主義者として心情的にも結ばれていた。当時反政府行動で拘束された人の支援もした。こんな勇気はない」と教えてくれた。
波瀾万丈の人生のなかで、彼女は見せ物小屋にも出た。戦争に断固反対し、公民権運動に参加。各国を訪ねて障害者の人権を訴え、日本の身体障害者福祉法(四九年)の制定にも尽力した。生きる日々そのものが冒険だった……。それでも、「決行日」まで決めた駆け落ちは果たせなかった。
同じ「盲ろう」の福島は「今なら、ヘレンもメールを使って、恋を実らせたのではないか」と言う。
連絡もとれただろうし、ホームページで恋を公にして、支援の輪を広げてしまえば周囲は反対しにくくなるかもしれない、というのだ。なるほど。米国の盲ろうの女性から、「インターネットで知り合った彼と実際につきあってるのよ」と、直接、英語の指点字で聞いたことのある福島にとって、それは夢物語ではないのだ。


このように、ヘレンも恋をしながらも周囲の無理解によって悩んだのである。
やはりヘレンも人間であり、悩みが苦しみがあったのではないかと思われる。
我々はこうした先人たちを雲の上の存在として神格化するだけで、自分とは無縁の存在として見るのではなく、我々と同じように悩み苦しみながらも、そうした偉業をなした一人の偉大な人物として賛美するべきではないだろうか。
そして、そうした偉人たちの生き方を手本として、1歩でも偉人たちの生き方に近づけるよう努力すべきだと思うのである。
それが、偉人たちの生き方に学ぶということであり、偉人たちの人生を価値あるものにするということなのではないだろうか。
また同時に、そうした苦しみが少しでも取り除かれるよう社会を変えていく努力も必要なのではないだろうか。

最後に、シルバーバーチの言葉を引用しておこう。
この言葉はイエスについて語ったものであるが、それ以外の偉人たちにもいえることなのではないだろうか。


 「私はあなたのためを思えばこそ、こんなことを申し上げるのです。誰の手も届かない所に祭り上げたらイエスが喜ばれると思うのは大間違いです。イエスもやはりわれわれと同じ人の子だったと見る方が、よほど喜ばれるはずです。自分だけが超然とした位置に留まることは、 イエスは喜ばれません。人類とともに喜び、ともに苦しむことを望まれます。一つの生き方の模範を示しておられるのです。イエスが行ったことは誰にでも実行できることばかりなのです。誰もついて行けないような人物だったら、せっかく地上へ降りたことが無駄だったことになります」
(『シルバーバーチの霊訓』 第5巻 第11章より)

投稿者 Dream : 2010年07月16日 16:20

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