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2007年02月27日

完璧な人生を送ることはできるか?

最近この日記はシルバーバーチ読書会と化しておりますが…(^_^;、まぁ気にせずやろう
(自分の日記なんだからなにをやってもかってでしょ?)

それでは今回もシルバーバーチの霊訓からお届けします。

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 牧師 「地上の人間にとって完璧な生活を送ることは可能でしょうか。全ての人間を愛することは可能なのでしょうか」

 「それは不可能なことです。が、そう努力することは出来ます。努力すること、そのことが性格の形成に役立つのです。怒ることもなく、辛く当たることもなく、腹を立てることもないようでは、もはや人間ではないことになります。人間は霊的に成長することを目的としてこの世に生まれて来るのです。成長また成長と、いつまでたっても成長の連続です。それはこちら(筆者中:霊界のこと)へ来てからでも同じです」

 牧師 「イエスは“天の父の完全であるが如くに汝らも完全であれ”と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか」

 「ですから、完全であるように努力しなさいと言っているのです。それが地上で目指すべき最高の理想なのです。即ち、内部に宿る神性を開発することです」

 牧師 「先ほど引用した言葉はマタイ伝第五章の終わりに出ているのですが、普遍的な愛について述べた後でそう言っております。また“ある者は隣人を愛し、ある者は友人を愛するが、汝らは完全であれ。神の子なればなり”とも言っております。神は全人類を愛してくださるのだから、われわれも全ての人間を愛すべきであるということなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じると思われますか」

 この質問にシルバーバーチは呆れたような、あるいは感心したような口調でこう述べる。
 「あなたは全世界の人間をイエスのような人物になさりたいのですね。お聞きしますが、イエス自身、完璧な人生を送ったと思いますか」

 牧師 「そう思います。完璧な人生を送られたと思います」

(中略)

 ここでメンバーの一人が割って入って、イエスが両替商人を教会堂から追い出した時の話を出した。するとシルバーバーチが続ける――

 「私が言いたかったのはそのことです。あの時イエスは教会堂という神聖な場所を汚す者どもに腹を立てたのです。ムチをもって追い払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別問題です。イエスは怒ったのです。怒るということは人間的感情です。私が言いたいのは、イエスも人間的感情を具えていたということです。イエスを人間の模範として仰ぐとき、イエスもまた一個の人間であった――ただ普通の人間よりは大霊の心を多く体現した人だった、という風に考えることが大切です。分かりましたか」

 牧師 「分かりました」

 「私はあなたのためを思えばこそ、こんなことを申し上げるのです。誰の手も届かない所に祭り上げたらイエスが喜ばれると思うのは大間違いです。イエスもやはり我々と同じ人の子だったと見る方が、よほど喜ばれるはずです。自分だけが超然とした位に留まることは、イエスは喜ばれません。人類と共に喜び、共に苦しむことを望まれます。一つの生き方の模範を示しておられるのです。イエスがおこなったことは誰にでも実行できることばかりなのです。誰も付いて行けないような人物だったら、せっかく地上へ降りたことが無駄だったことになります」

(シルバーバーチは語る)

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 「病気も必要というところが引っ掛かります。病気を知らない生活が送れるほど完成された時代も到来すると私は信じます。あなたのおっしゃる病気とは、摂理を犯すこと、と受け止めてよろしいでしょうか」

 「人間はいつになっても摂理に違反した行為をいたします。もしも完全に摂理と調和した地上生活を送ることができれば、それは地上で完全性を成就したことになりましょうが、完全性の成就は地上では有り得ないのです。なぜなら地球そのものが不完全だからです。
 地球は学習のために通う“学校”です。その学習は、比較対象の体験による以外には有り得ません。日向(ひなた)と陰、嵐と凪(なぎ)、愛と憎しみ、善と悪、健康と病気、楽しみと苦しみといった相反する体験を通して学習していくのです。相対的体験と、その中での試行錯誤の努力を通して、魂が磨かれていくのです」

(シルバーバーチの霊訓 霊的新時代の到来)

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コメント

私たちは完全な生活を送ることなどできるでしょうか?

いくら見返りを求めるなといっても、この世で生活するにはお金が必要です。お金がなければ食べるものも、着るものも、住む家も手に入れることができません。電気も水道もガスも電話も、そしてインターネットも繋がりません!!

また、いくら「喧嘩はいけません。戦争はいけません」といっても、向こうから仕掛けられればやらないわけにはいきません。黙ってやられるままでは滅ぼされてしまいます。

我々は不完全な存在です。そしてこの地上自体不完全なのです。

理想を掲げることはすばらしいことで結構ですが、我々は不完全であることを認識しなければなりません。あのイエス様でさえ完璧な生活を送ることができなかったのです(クリスチャンは認めないかもしれませんけど)。

ですから不完全である自分を責める必要はないのです。不完全な自分であることを認識しつつも、今日よりも明日、明日より明後日の自分が少しでも完全に近づけるように努力することが大切なのです。そうやって完全へ向けて努力すること自体が我々が生きる目的なのです。

投稿者 Dream : 2007年02月27日 20:18

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